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建築家 大倉三郎                     時局下の建築家の進路  昭和13年発行 「建築雑誌」より

  • S.Yamauchi
  • 2月6日
  • 読了時間: 2分

私の在籍しました大学の学長であった大倉三郎氏の紹介と大倉氏が38歳の時の論評のご紹介です。

京都を中心として活躍した建築家。1900年(明治33年)京都市生まれ。京都帝国大学工学部建築学科卒。宗建築事務所・京都帝国大学営繕・台湾総督部技師営繕を経て、京都工芸繊維大学教授に就任。後に同大学の学長を務める。作品には、宗建築事務所時代の担当であった旧鴻池銀行七条支店(現ヴォヤージュドゥルミエール京都七条迎賓館)、生駒時計店があり、また京大営繕時代の京都大学花山天文台、法学部・経済学部本館、龍谷大学図書館、更に京工繊大時代の同志社大学明徳館などがある。

1966年(昭和41年)京都工芸繊維大学を退官後、1967年西日本工業大学学長、1977年(昭和52年)西日本工業大学を退職されています。



1938年(昭和13年)12月には建築雑誌に下記内容の論評を投稿されています。ちなみに、この時代の日本は、日中戦争下の1938(昭和13)年、 政府は議会の審議を経ることなく、資源の管理や労働力の徴用など、国民生活のあらゆる面を軍事目的で統制することが可能になった年です。このような時代に大倉氏は以下のような論評を書いています。氏の強い信念を感じます。以下、結に述べられた締めくくりの文章の一部をご紹介いたします。


時局下の建築家の進路  


個々の建築は芸術である。芸術は自由によって伸びる。一元的官僚式統制で建築の進展は望まれないという反対論も起こり得るであろう。建築の本質的な疑問に対しては重要課題が残されているかもしれん。しかし前途の通り今にして之を断行したければ、何を以て日本の文化は表象され、向上され得るであろうか。唯この際警戒すべきは知性を没却せる形式論であり、反動的な偏狭論であり、又山田氏の意企にもありし如く誤れる国粋でもある。今や新文化、新秩序の長期建設に向はんとする秋、建築技術者の使命はますます大きく。自らを日本建築家と稱することを躊躇せしめる様なものに吾國建築界をしてはならぬ。このためにこそ廣く大きな新秩序の前に建築家は進んで協力しなかればならぬ。


注釈 山田とは山田守氏(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日。日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した)と思われます。

参考文献 建築雑誌 第52 第645号 昭和13年12月 建築学舎




   上の写真  同号(建築雑誌 昭和13年発行巻末に添付された資料です。

         この時代を感じさせるものです。


 
 
 

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